2017年08月24日作成

2017年8月24日でアンディ・フグ死去から17年。鉄人アンディ・フグの足跡を紹介します。

K-1人気の最大の立役者でもあるアンディ・フグ。誰からもアンディですが、ファイターとして全盛期を迎えていた2000年に早すぎる死を迎えました。今なおスイスでは追悼イベントが行われており、クイールでもアンディ・フグの追悼日に際してその足跡を記していきます。

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アンディ・フグの没後17年に

この記事を投稿した2017年8月24日は、アンディ・フグが亡くなってからちょうど17年となります。

アンディ・フグは日本で大ブームを巻き起こしたK-1人気の立役者でもあり、誰からも愛されたマスコットキャラクターでもありました。極真空手から正道会館を経てK-1に転向。ショッキングな敗戦を経て、1996年にグランプリで初優勝を成し遂げたシーンは日本格闘技の歴史においても燦然と輝いています。しかし全盛期にあった2000年に、白血病で早すぎる死を迎えたことは日本中に衝撃を与え、8月24日の命日はK-1ファンにとって特別な一日でもあります。

そのK-1も2011年に活動休止を迎え、日本では新生K-1として「K-1 WORLD GP JAPAN」が立ち上がり、武尊ら新世代のファイターが新しい市場を開拓したことで、今やアンディ・フグを知らないファンも増えてきたかもしれません。

今回はアンディ・フグの命日にあたって、アンディがK-1で遺してきた足跡を改めて振り返っていきます。

極真空手を経てK-1に参戦

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アンディ・フグといえば空手着を身に着け、カカト落としを放っている姿が印象的なように、格闘技のルーツは空手にあります。

スイスで10才の頃から極真空手を始め、1985年に極真空手ヨーロッパ選手権を優勝。1987年には世界大会で決勝まで勝ち進み、現極真会館館長の松井章圭に敗れて準優勝。これは当時の外国人で歴代最高位の成績です。

1991年の世界大会ではフランシスコ・フィリォから再延長までもつれる試合の末に、止めの合図がかかった後に左上段回し蹴りをもらい失神。「止めがかかったとはいえ、その不意をつかれる者は勝者ではない」という大山倍達総裁の判断から一本負けとなっています。

翌年に極真空手を離れて正道会館に移籍し、92年の「カラテワールドカップ 格闘技オリンピック3」で優勝。以降は正道会館所属として1993年に旗揚げされたK-1に参戦します。

K-1の旗揚げ大会といえば、当時伏兵だったブランコ・シカティックが3試合連続でKO勝利を収めてグランプリを優勝しましたが、この時アンディは空手ルールで角田信朗と対戦。2Rに顔面への膝蹴りで2度のダウンを奪って一本勝利を収めています。

グローブマッチ3戦目でいきなりブランコ・シカティックを撃破

初回のK-1グランプリから7ヶ月後には「ANDY'S GLOVE」と銘打たれた大会が開催され、その名の通りアンディ・フグがK-1ルールでのデビューを迎えることになります。デビュー戦の相手は村上竜司で、現在は上原誠が所属している士魂村上塾塾長を務めています。アンディは村上から1Rに3度のダウンを奪って1RTKO勝利。翌月にはK-2グランプリのワンマッチに出場して、ここでも左フックでKO勝利を収めています。

そしてK-1ルールでの3戦目にして、当時ディフェンディング王者だったブランコ・シカティックと対戦。「余りにも無謀な挑戦」と言われたこの試合は、序盤にシカティックのパンチの連打でダウンを喫するも、そこから不屈の闘志で盛り返し、今度は逆に左ストレートでスタンディングダウンを奪取。5Rまでもつれた試合の末になんとアンディが判定でシカティックを制しています。

この勝利で一躍グランプリ優勝候補に躍り出ますが、初めて迎えた94年のグランプリではUFCにも参戦していた"喧嘩屋"パトリック・スミスからわずか19秒でKO負けを喫してしまいます。

まさかの敗戦となったものの、翌年の「K-1 REVENGE」でパトリック・スミスから大会名の通りに見事にリベンジを達成。この後も「K-1 REVENGE」と名の付いた大会が開催されており、K-1にとって馴染み深いリベンジというフレーズは、このアンディのパトリック・スミスへのリベンジが大本となっています。

そして95年のグランプリ開幕戦では、当時無名選手だったマイク・ベルナルドと対戦。アンディが今年こそ開幕戦を突破すると誰もが思っていましたが、この試合もベルナルドの豪腕に屈して2RTKO負けを喫しています。

96年にベルナルドにリベンジを果たして劇的な優勝

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ワンマッチでは無類の強さを誇りながら、グランプリでは2年連続でまさかの敗戦を喫したアンディですが、96年のグランプリでは伝説の1ページを刻みます。

鬼門となっていた開幕戦ではバート・ベイルを1RでKOすると、準々決勝では大巨人のバンダー・マーブから押される場面があったものの、左フック一閃でKO勝利。準決勝ではかつて敗れているアーネスト・ホーストと延長2Rまでもつれる激戦の末に勝利し、決勝では前年に敗れているマイク・ベルナルドとのリベンジ戦に。

両者ともに激戦のダメージが残る中、2Rにアンディの右ローキックでベルナルドがついにダウン。ベルナルドはサウスポーにスイッチして左足を蹴らせまいとするも、そこにアンディの必殺技であるフグトルネードがヒットして、ベルナルドから2度目のダウンを奪うと、劇的なKO勝利と共にグランプリ初優勝を飾っています。

観客が一体となってダウンコールを唱え、KO勝利と共に左手を突き上げたシーンは日本格闘技の歴史の中で伝説的な一コマとなっています。

芸能活動もこなし、格闘技の枠を飛び越えた人気者に

アンディは日本に在住して正道会館に在籍していたこともあり、芸能活動も精力的にこなしていました。当時K-1の冠スポンサーを務めることもあった日清食品のテレビCMに起用されることが多く、中でもカップラーメンの「強麺」のCMでは「強麺なさいよ」というフレーズと共にカカト落としで扉を蹴破るシーンは非常に有名です。

また「K-1四天王」としてピーター・アーツ、アーネスト・ホースト、マイク・ベルナルドといったライバルと共にめちゃイケなどのバラエティ番組に出演していたことで、当時の外国人選手はお茶の間の人気者でもありました。

特に印象的なテレビ番組としては、関西で人気の「探偵ナイトスクープ」にて、格闘術を編み出したという青年から「辰吉やアンディ・フグ級の選手と戦って自分の強さを証明したい」という回がありました。独りよがりな格闘術にすがっていた青年と対峙することになったのが、なんとこのアンディ・フグで、試合となれば全く為す術もなくアンディの前に倒されてしまいます。

全体的にバラエティのテイストで軽めの進行だったのですが、その時にアンディが発したセリフがアンディの人柄を非常によく示しています。

K-1参戦からしばらくはグランプリで苦杯を舐め続けながらも、不屈の闘志で復活し、見事優勝を成し遂げたアンディだからこそ重みを感じる言葉かもしれません。

スイスでも国民的な人気を博す

またアンディ・フグは日本のみならず、母国のスイスでも大変な人気を博していました。近年でもタレントの春香クリスティーンが「スイスでは知らない人がいない」とテレビで話していたほど。

アンディ人気を背景にスイスで開催されたK-1の大会は、スイスの国営放送で視聴率が50%を超えるなど、母国でまさに英雄的な存在です。

没後から17年が経った今なお、スイスでは「K-1アンディメモリアル」として追悼大会が開かれており、今年の大会ではアンディの愛弟子であるピーター・マエストロビッチが、K-1グローバルのライトヘビー級のタイトルを獲得しています。

この大会は90年代の日本格闘技を思わせるような、大変な熱狂ぶりで、マエストロビッチが大声援をバックに勝利した後には、アンディを思わせるカカト落としを四方に披露するなど大団円となりました。

当時のK-1記録となる3年連続ファイナリストに

アンディの体格は身長180センチ・体重98キロと、大型化していたK-1ヘビー級の中では小柄ながら、空手仕込みの多彩な足技と、元ボクシング世界王者の平仲明信に師事して向上させたボクシングテクニックを融合させ、グランプリでも安定的に上位を獲得できるようになりました。

96年に初優勝すると、97年には佐竹、ピーター・アーツを破って決勝に進出。この年はホーストが悲願の初優勝を成し遂げますが、準優勝に輝いています。

また翌98年はピーター・アーツ復活の年で、アーツが全試合1RKOで3度目の優勝を飾っていますが、アンディもレイ・セフォー、サム・グレコを破って決勝に進出しており、この年も準優勝となっています。

96年から3年連続してのファイナル出場は当時のK-1記録で、着実に地力を高めてきたことが良く分かる記録となっています。

全盛期のまま2000年に白血病で死去

このように充実したキャリアを送っていたアンディは、2000年にも武蔵やミルコを破るなどワンマッチでは4戦全勝。このまま10月のグランプリに出場することが予定されていましたが、大会の2ヶ月前にあたる8月24日に記者会見が開かれ、アンディ・フグが急性白血病で危篤であることが発表されます。

そして記者会見からわずか4時間後の6時21分に死去。突然の訃報に日本列島が震撼し、テレビではテロップが流され、K-1を中継していたフジテレビでは急遽追悼番組が放送されています。

アンディは死去した1ヶ月前の7月にはノブ・ハヤシと対戦して勝利しており、余りにも突然の死となっています。もともと微熱が続いていたところ、母国スイスに帰国した際に高熱を発症し、日本に戻ってから検査をしたことで白血病が発覚。

白血病の中でもとりわけ進行が早い急性前骨髄球に罹っていたため、発覚から間もなくして息を引き取ることになってしまいました。

またアンディの最後の対戦相手となったノブ・ハヤシも2009年に急性骨髄性白血病を発症。1度は再発したものの、病気を克服して2015年には白血病から復帰後初勝利を収めています。

なおアンディの死去から3ヶ月後にはAC(公共広告機構)の骨髄バンクのテレビCMにアンディが起用されており、アンディの存在の大きさが改めて感じさせられることになりました。

日本では2006年まで追悼大会が開かれる

先ほどは母国スイスでは現在もメモリアル大会が開かれていたことを紹介しましたが、日本でもメモリアル大会が開かれています。

アンディの死去から翌年の2001年には「K-1 ANDY MEMORIAL 2001」としてジャパングランプリが開催され、決勝でニコラス・ペタスが武蔵を破って優勝。翌年の「K-1 ANDY SPIRITS 2002」では武蔵が前年の雪辱を晴らして優勝しています。

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旧K-1で最後にメモリアル大会が開催されたのは、2006年に札幌で開催された「K-1 REVENGE 2006 〜アンディ・フグ七回忌追悼イベント〜」になります。この大会ではボビー・オロゴンがK-1デビューを飾るなどして高視聴率を記録しましたが、メインイベントでは武蔵とグラウベ・フェイトーザという空手家同士の一戦で、白熱した試合の末にグラウベがダウンを奪って勝利しています。

この後メモリアル大会が開かれることはありませんでしたが、今でも格闘技ファンの間で「アンディ魂」という言葉が使われるなど人々の記憶には残り続けています。

最後に

今回はアンディ・フグの命日ということで、アンディの足跡を振り返ってみました。

新しい世代の格闘技ファンにとっては名前しか聞いたことがないという方も多いかと思います。そのような方に向けて今回はアンディがどんなキャリアを歩んで来たのか、どれほど人々に愛されてきたのかをお伝えできればと思って、今回の記事を投稿しています。

またかつてアンディを応援していたファンの方にとってもノスタルジーな余韻に浸って頂ければ幸いです。

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